さまよえるLOVEずっきゅん

大阪の広告制作&ライター事務所 ラッキー・スター。 コピーライター&ライターが気まぐれに綴るたわごと。

2014年01月

コピーライターくん・3

初めて入賞したのは、静岡のFM放送局が主催したラジオCM賞だ。
そこで佳作を頂いた。
課題は電子機器メーカーの、業務用アルコール探知機で
自分としては「えっ、これが入賞ですか?」と
意外に思ったのを覚えている。

しかしその初受賞を実にうれしく思った。
サイトに入賞作として掲載された自分の作品を何度も読み返し、
CDとして送られてきた完成CMを何度も聞いた。

よし、この勢いでさらに賞を獲ろうと頑張ったが、
その年はその1本のみの受賞に終わった。

翌年、今年は年間2本以上の入賞をと目標をたてたが、
秋にラジオCM賞を1本頂いただけに終わった。
その翌年も同じ目標をたてて、同じくラジオ1本入賞のみに終わった。

いっきに上向いたのはその翌年、2011年のことだ。
まず、その前年に開催された宣伝会議賞に応募した中の1本が、
協賛企業賞を頂けることになったと連絡があった。
NTTドコモの課題で、受賞作はやっぱりラジオCMだった。
宣伝会議賞には4回目の応募だった。
毎年増え続けるその年の応募総数がたしか32万4000本くらいで
その中での最終ノミネート100本内兼協賛企業賞となった。
そのことは実に大きな自信になった。

しかし、喜びいさんで東京で行なわれる贈賞式に行ったのだが、
そこでは受賞の喜びよりも、大きな敗北感を味わって帰ることになった。

宣伝会議賞では、協賛企業賞の位置はきわめて低い。
そう感じた。
壇上に立ち並ぶファイナリストの方たちを見て、
このテーブルと、あの壇上との間には、
高く厚い壁があるなと実感した。
挫折感と屈辱感と敗北感に打ちひしがれた帰りの新幹線の中で、
締切が近いラジオCM賞の応募作品をひたすら書き続けた。

思えば、その時が急激な成長を遂げる転機だったのかと思う。
帰りの新幹線の中で書いた作品だったか、
その前に書いたものかはわからないが、
そのラジオCM賞で3本の作品が同時に入賞した。
その中で準グランプリを頂いた作品は、
後に放送局のはからいで応募して頂いたACC賞で
ラジオ部門の賞を受賞することになる。
また、その作品はFCC賞で入賞には届かなかったが、
ノミネート作品としてFCC年鑑に掲載された。
さらには、その作品だけの評価ではないが
ある放送局からCMコピー制作の仕事を頂けるようになった。
年に数回といったペースであるが。

その年は、その他にもラジオCM賞を中心にいくつかの賞を頂き、
年間トータル9本の入賞となった。
また、いつかはこういうところに載りたいと思っていた
広告年鑑の掲載も果たし(ACC年鑑・FCC年鑑)、
ひとつ小さな夢がかなった。

その翌年となる昨年は、年間で5つの賞を頂いたが、
目標としていた「最高位の賞を獲る」も
「グラフィックの賞を獲る」も果たせないまま終わることになった。
その目標は今年も引き続いて継続している。

現在私は、コピーライターとして仕事をするだけではなく、
ライターとしての仕事も拡大させ、
さらには別分野の創作活動にも本格的にとりくみ始めている。
しかし、あくまでも基本はコピーライターでありたいし、
広告賞に挑んでの修業もずっと続ける。
そのスタンスはこれからも変わることはない。たぶん。
よほど大きなことが起こらないかぎりは。

それにしても、思えば実力が急激に伸びるきっかけとなるのは、
私の場合は、敗北感や劣等感、挫折感や屈辱感であることが多い。
それらを感じて、くそーっと思った時に気持ちが燃え上がり、
その時点で持っている力が背伸びをして、
そのまま伸びていくといった感覚である。
そしてその時の心境は、
不朽の名作映画「狂い咲きサンダーロード」の劇中のセリフ、
「上等じゃねえよ、やってやろうじゃねえよ」である。

そう考えると、私はいくつになろうと、
「いい年なんだから」と、へたな妥協をしたり、
「これくらいで十分じゃないか」と自分を納得させるようなことはせず、
くそーくそーと上を目指す発展途上の気持ちを持ち続けることで、
動いてあがき続けて、まだまだ自分をのばすことができる、
それこそ実力向上青天井を目指せると思うのである。

広告は芸術作品ではない

「広告は芸術作品ではない」。
最初に勤めた代理店でそう教わった。
それは基本中の基本であり、私はさらにそれに加えて
「自己表現の場ではない」「遊びの場ではない」と考えている。
広告は、広告を出す広告主のものだ。...
広告主の商品やサービス、あるいは会社や団体の存在を
消費者に広く伝えるものであって、
広告の制作はそれをより効果的に行なう目的でなされるべきだ。
そこで芸術性がどうだとか、制作者の個性を表現するとか
創造性があーだこーだとかのたまうことは
勘違いもはなはだしいぞと思っている。

広告主は費用をかけて広告を作り、世の中に発信する。
そして、そのかかった費用以上の収益を期待する。
当然のことだ。
特に中小零細企業や個人商店にとっては大きな問題である。
予算はあまりかけられない、しかし費用対効果は期待したい、
その効果によって業績が大きく変わることだってあるのだ。

私はもともと営業職だった。
会社は当時リクルートの専属代理店で、
後に自社で運営する求人サイトを作り、
今は国内でもトップを争う位置にいる会社である。
その会社で求人情報誌の営業に携わり、
その後会社を移ってからは制作職を兼任し、
さらに独立してから後に制作専任になったが、
今も机上の視点ではなく、現場での視点でものを考えるくせがある。

求人広告を出した際、大きく有名な会社は社名だけで応募が集まる。
しかし、小さな会社は知名度がないのでそうはいかない。
そこで、できるだけ多くの情報発信が必要になる。
どういう会社でどういう仕事をしていて、どんな人材が必要なのか、
あと、募集の背景やその他いろいろあれこれ、
多くの情報を提供することで、その会社への理解度を深めてもらい、
共感できる人に応募してもらい、採用を成功させましょう、
そんな内容をたどたどしく語り、
その場で即興の原稿企画案を考えて説明し、
そこで「よし、掲載しよう」と言ってもらえなかったら
帰って企画書を書いて送りつけるか次回持って行くかをした。
口下手で内向的な人間が営業でやっていくには
何か武器を持たないとだめだ。
なので私は求人広告について勉強しまくって、
原稿企画力を高めることでその活路を開いた。

話がそれたが、そんなわけで私は、
広告を作る、コピーを書く際に、広告主のことを第一に考える。
広告主の希望を聞き、それに応えるべく動くという
現場でのやりとりをずっとやってたからね。
切実な希望を聞いて、なんとかしようと奮い立ち、
知恵をしぼって原稿の企画を進めるといった展開だ。

大企業とか、有名な商品・サービスであれば、
細かい説明はなくてもいいと思う。
雑誌にしてもポスターにしても、
そのスペースの中央にコピーを1行か2行すっと書いて、
コピーよりも全体のデザインで目をひくといった作り方でもいいよね。
けど、知名度も何もない中小零細企業や個人商店は
それではきつくないかと考えてしまうのよ。
場合によってはデザイン性が効果的だと思える時もあるけど、
ここぞの勝負をしたい時にはアピールポイントをひとつ決めて、
それを中心にしてできるだけ情報を入れたほうがと思うのよ。
たぶん広告主の側も
「こんなにスペースあるのにもったいないやないか」と
思うかもしれないね。


コピーライターくん・2

広告賞に応募してみようと思い立った時、
たまたま始まっていたのが宣伝会議賞だった。

課題となっている広告主に対して、
直接の取材なしで自分で集めた資料のみを頼りにして、
広告制作を行なうその作業は、
実務の仕事に較べて不利な条件ばかりだが、
応募者はみんな同じ条件である。
そんな状況の中でどれだけいいものを作ることができるか、
あがいて、もがいて、手さぐりで作り出すことが、
実力を高める修業になると思った。

宣伝会議賞は国内で応募者、応募作品ともに最多といわれている。
それはプロだけでなく、素人さんが多数参加しているからであり、
まがりなりにもプロである自分なら、
そのような数字に関係なく上位にくいこめるはずだと、
正直言ってなめきっていた。
応募作品の制作は、自分のセオリーどおりに
まず企画をたてて、ボディコピーを書いて、
それにリンクしたキャッチコピーを書く、そのような手法で進めた。
いわば実務の制作手法で、めんどくさい手法でもある。
そんなこんなで2ヶ月で書いた作品はわずか48本。
それでもきっちりと仕上げた作品だから、
必ず評価されて入賞するだろうととことんなめていた。
そんな気持ちがあるにもかかわらず、
1次審査を1本も通らなかったらコピーライターの肩書をはずす、と
SNSで公言した。

結果は、1次審査通過が1本のみ。
その通過した作品も、だらけ半分で書いたテレビCMのコンテであった。
魂をこめて作った他のコピーはすべて1次審査さえ通過しなかったのだ。
その事実はさすがにショックが大きく、
1次審査通過者発表記事が掲載された宣伝会議誌が発売された
その年の2月1日、惨敗の結果に傷ついた心をいやすべく、
オフィスでまるで現実から逃げるかのように仕事に集中した。

広告賞はあなどれない、なめきっていて自分が恥ずかしい。
しかし、これで終わりではない、修業は始まったばかりだ、
じゃあ次だ、次、と
たまたま見つけたラジオCM賞に応募することにした。

しかし、ラジオCMはそれまで書いたことがない。
どう書けばいいんだろう、
とりあえず見よう見まねで書いてみた。
応募要項に「20秒CM 100文字以内」とあったが、
SE:とか、NA:も文字数に入れるのだろうかと迷ったり、
100文字をオーバーしてるから、セリフを短くしようとか
今から思えば、そんなことで悩んでいた自分が恥ずかしい。

その後、字数は関係ないからとにかく決められた秒数に
おさまればいいのだと知り、
字数にこだわることなくCMを書くことにした。
書き続けているうちに、なんとなく20秒の感覚が身についた。
秒数は俗に「尺」とよばれるのだが、
その20秒の尺の感覚が身につき、
字数はちょっと多くなったけど
20秒に収まるななどとわかるようになった。

そして、書き続けているうち、
その年の夏、初めてラジオCM賞で入賞した。
宣伝会議賞を含めて5つめに挑んだ広告賞での入賞であった。

( 続 く )

コピーライターくん・3

大学を卒業して、いや、正確には卒業前からだが、
入社した広告代理店での仕事は営業職だった。
もともとは制作を希望してたのだが、
その会社に採用された全員が営業職として入社した。

その会社を退職した後、他業界の会社を経てまた広告業界に戻り、
いくつかの転職を経て、31の時に独立した。

自分はサラリーマンとして生きることは無理だと悟るまで
10年かかかった。
仕事ができるというだけでは、組織の中では評価されない。
最初の会社でわかっていたことだが、
いや、そんなことはないはずだ、と思っていた。
しかしそれは違っていて、
自分を納得させて、
1人で仕事をすることを選ぶまでに10年かかった。
ただ、その10年間で、
1人で仕事をして生きていく力をつけることができたと思う。

何もない状態で事務所を立ち上げた。
広告代理店の看板をあげて、1人で営業・制作・事務すべてをこなした。
自分で営業にまわり、もらった仕事は自分で原稿を作り、
自分で入稿に行って、自分で事務処理をする。
それを8年くらい続けて、思うところがあってボクシングジムを作った。
そのいきさつはジムのサイトに書いてあるのでここでは割愛する。

ジムが忙しくなり始め、事務所をジムの上階に移した。
新大阪から谷町九丁目への移転である。
新規の営業はやめて、広告代理店の看板そのままにしておいたが、
業態は少しずつ広告制作事務所として移行させた。
コピーライターの肩書で名刺を作ったのもこの頃だ。

広告業界に長くいるといっても、
業界の末端でふがふがしてたようなもので、
制作職のキャリアはないし、コピーの講座や学校に通ったこともなく、
先輩社員に教わったということもなく、
すべて自己流で、勝手に勉強してうだうだやって今に至る。
広告制作の勉強は、最初のうちは街にあふれている広告を
追いかけて分析することから始めたが、
それだけでは足りない、受け入れるだけでなく、
自分から発信することが必要だと、広告賞への応募を始めた。
それが5年ほど前のことだ。


( 続く )

すっかり忘れていた事実

先日オフィスのパソコンを入れ替えた。
元のパソコンは10年近く前の型だが、
メモリ不足による不具合が目立つようになり、
いくつかのソフトを同時に立ち上げるとヒューズがとぶかのように
電源がすっとぶようになった。
これでは実に困る。
というわけで新しいパソコンを購入した。

外資系メーカーのアウトレット品(注文キャンセル品・新品)を買ったのだが、
モニタも含め5万円を切る価格であった。
元のパソコンは中古購入で10万円ほどだったので、
その半額で性能ははるかに上回る機種が買えたことになる。
いい時代になったものだ。

しかし、旧パソコンから新パソコンにデータを移行する作業で、
かなり手こずってしまった。
データ転送ケーブルを使って自動的にいっきになどと考えていたが、
旧パソコンのデータがあちこち破損しまくっているようで、
自動転送の途中でエラーが出まくり、しかたないので手動で移した。
旧パソコンでメーカーのサイトを見て、
ああだこうだと作業をしながらふと考えたのが
「こういう時、パソコンに強い秘書がいればなあ・・・」であった。
パソコンに、コンピュータに強い人・・・とそこまで考えて思い出したのが、
「そういえば俺って高校の情報処理科卒業なんだよな」。
そうなのである。
私は某県のある商業高校の情報処理科卒業である。
コンピュータの授業もけっこうあった。成績は悪かったが。

しかし、その頃に習った知識は今まったく役に立たない。
もう30年近く前で、パソコンもまだ市販されておらず、
習ったのはコボルとフォートランによるプログラミングであるが、
今はもうまったく覚えていない。
かけらさえも残っていないのだ。
そして今はパソコンに関してどちらかといえば弱いと思う。
なんのための授業だったのだろうかと思う。

ただ、高校で学んだ簿記の知識は今けっこう役にたっている。
経理は会計ソフトを使っているが、
その気になれば手書きでの帳簿も作れるだろう。
そう考えると商業高校行ったのも無駄ではなかったなと思うのである。
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